徳島県南部には、旧富岡町など12カ町村が合併してできた、阿南市があります。阿南市という文字から、阿波の南にある市ということがわかります。阿波は、713〈和銅6〉年以降に、「粟国」から「阿波国」に文字が変わり、粟がたくさん取れたことから粟国と呼ばれていました。では、阿波は、何を意味して「阿波」という文字をあてたのでしょうか?
徳島県庁の広報や観光用地図には、阿波という音に英語の「OUR(わたしたちの)」をあてて「0UR徳島」などとシャレています。古代のお役人は、どのような思いで『阿波』という文字を当てたのでしょう?
「阿波」の「阿」の字は、物事の始まりを示す重要な文字です。言葉の始まりは、「あ・A」で、神社、仏閣にある「こま犬」や「仁王像」が表す、阿吽(あうん)〈最初と最後〉の「阿」です。口を開けた方が「阿」で始まりを表し、吐(は)く息のことです。ですから、阿波の文字は「波が、始まったところ」を意昧しています。では「何の波」でしょうか。そのことは、古事記などの古い書物が「日本の文化は、阿波から広がった」と明確に伝えてくれています。けれども、古くから阿波の意味を知らずに「阿波、阿波」と使い続けてきました。
阿波という文字は、
阿波から日本文化の波が始まったことを示していたのです。では実際に、古事記は阿波のことをどのように伝えているのでしようか?
『日本文化は阿波から始まった』と言うと、
「そんなバカな」と思うでしよう。
「間違っている」と言っても「古事記」にそう書いてあるのですから仕方がありません。しかし、なぜ、それがわからなくなってしまったのでしょうか。実は阿波国という以前の国名が「イの国、あるいはイツの国」と呼ばれていたことを、阿波に住んでいる人でさえ忘れてしまい、わからなくなってしまったことに原因かあるのです。先に、粟国から阿波国に変わったと書きましたが、阿波が「イ・イツの国」であったことは、古事記・日本書紀などの古い文献や日本各地に残るわずかな痕跡が、それを物語っています。阿波に住む人なら少し説明を聞けば、阿波が「イの国」であったことがすぐ理解できるはずです。
国生みの最初は淡路島ができ、その次に伊予(いよ)の二名島(ふたなじま)ができました。「伊予の二名島」とは四国のことです。古い時代は、四国とは呼ばず「伊予の二名島」と呼んでいました。現在の地名で感覚でとらえると「伊予」というと、愛媛県と思ってしまいますが、「伊予の二名島」とは、愛媛県のことではありません。
ほとんどの研究者は、この「国生み」の箇所を重要視せず「伊予の二名島」を正しく解釈しないで、古事記を読み進めているため、そのあとに出てくる出雲・日向を、島根県や宮崎県であるかのごとく間違えて解釈しています。このため、その後の日本の歴史の解釈が間違ってしまいました。
阿波が「イの国」だったことに、気が付かなかったことがすべての原因であり、阿波が「イの国」であったことを理解することにより、それをキーワードとして古事記の話は生き生きとよみがえり、日本の歴史と現代の社会が正しく見えてくるのです。そのためにも、古事記の伝える「伊予の二名島」を正確に解釈しなくてはなりません。
では、「伊予のニ名島」とは、どういう意味で、また、なぜ阿波が「イの国」になるのでしようか?