1.古い阿波は、「イの国」といっていた

伊予(いよ)の二名島(ふたなじま)とは、伊国(いのくに)と予国(よのくに)の二つの国がある島ことです。

 伊予は予国です。まず「愛媛県史」から[伊予の名称]を紹介します。

 [古代の伊予とは、愛媛という神霊のやどる一国名であるとともに、四国の総称という大地名でもあったことがわかる。(略)『愛媛県の地名』〈日本歴史地名大系、昭55、平凡社〉は、次のように温泉説の立場をとっている。本来温湯をさす語で「国名考」にいうようにユがヨとなり、和銅6年(713〉の二字の好字を用いる制に従って、発語のイを付けイョとしたもので、それは今日の道後温泉が古代伊予の文化発祥の中心であったことによる。」〈略〉「以上、どの説も決め手をもたないながらも、特殊仮名遣を援用して、一応めでたい称え名と推定しておく。なお、イヨの表記として、〈伊豫〉が採用されたのは、〈豫〉が好い字であったからであろう。]

と最後に記され、結局はよくわからないと結んでいますが、通説の解釈は、大きな誤りがあり、的を得ておりません。古事記などには、「伊予の二名島」と書かれているにもかかわらず、語句の一部分だけをとらえて、伊予というと愛媛県と結び付けて、伊予は、四国全体を指す大地名であると解釈しています。「伊予の島」と書いてあるならそんな解釈でいいのでが、「二名島」と書いてあるのですから「二名島」の解釈もしなくてはなりません。しかし、愛媛県史には、二名島についての説明はありませんが、唯一、[本居宣長は、「古事記」国生みの条の「伊予之二名島」の「二名」について、四国は男女各二組が並ぶから「二並」(ふたならび)の意と解釈し、次に記す「書紀」の歌謡を援用して、四国は「弥二並(いやふたならび)の島」で、イヨは弥(いや)の意としている。]と書いています。
 二名島については、他のどの文献も同じように不十分な解釈です。二名島とは、どういう意味でしょうか。『広辞苑』で【予州】を見ると「伊予の別称」となっています。
 
愛媛県では、伊予を一字で呼ぶ場合「伊」を使わずに「予」を使います。たとえば、JRの高松駅から愛媛県宇和島駅までは予讃線。宇和島駅から高知県窪川駅までを予土線。天気予報などでよく耳にする「東予・中予・南予」。豊予海峡。伊予銀行の前身は予州銀行など、例はたくさんあり、古い文献も「予州」と書いています。このように、古くから「予」を使っている愛媛県は、つまり「予の国」だったのです。すると、「伊予の二名島」とは、伊と予の二つの国がある島ということで、四国のどこかに「イの国」があることになります。では「イの国」は、どこになるのでしようか。


 阿波は、イの国・イツの国・倭国(いっのくに)だった
 伊予の二名島の西側が予の国であるなら、イの国の範囲は、おおまかにみて徳島県と呑川県、高知県の東半分、つまり、四国の東半分が一つの国をなしていたと考えられます。
 
そこで、四国の東側をみると「イの国」であった痕跡が、たくさん残っています。徳島県に住む人なら、そう聞けば思い当たることが、たくさん頭の中に浮かんでくるでしょう。まず、阿波が「イの国」でなければ、祖(そ)を(イ)とは読まないでしょう。祖谷(いや)を祖先(そせん)の住む古い谷であるから祖(そ)の字を付けたかどうかは、今後の研究によりますが、徳島県の一番東に「伊島」もあります。また、井川・井ノ谷・井ロ・井関・井内など、他のイの付く字名、小字名は、各市町村に何カ所もあります。例を少し拾っただけでも、阿波が「イの国」であったことがわかります。そして、それ以上に決定的な地名が地図上に残っているのです。徳島県の周辺には、「猪の鼻」(いのはな)という地名が三カ所あります。(図2参照)鼻(はな)は岬名によく使われていますが、端(はし)という意昧です。「猪の鼻」とは、まさに「イの国の端」をあらわす地名であり、三ケ所とも徳島県の端にあります。それだけでも「イの国」を表していますが、その上に、名西郡神山町(みょうざいぐんかみやまちょう)西隣りの美馬郡木屋平村(みまぐんこやだいらそん)などに「猪の頭」(いのかしら)という地名があります。しかも、そこは徳島県の中心部でもあり、神山町周辺こそ、のちに登場する天照大御神(あまてらすおおみかみ)や大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が活躍する舞台である、高天が原(たかまがはら)だったのです。
 このように現在の地名などから考えても、阿波が「イ・イツの国」であったことがわかります。「イツの国」とは、一番にできた国であるから「一の国」であり、例として一本(いっぽん)、古事記では、伊都之尾羽張(いつのをはばり)など「イツ」と使われています。それが、つづまり「イの国」と呼ぶようになったと考えられます。また、井戸のある文化国家だったから、「井の国」だという説もあります。また、忌部(いんべ)も「イの国の部(べ)」ですから「忌部」と名乗ったか、「一番重要な総括する部(べ)」と考えられます。『古語拾遺』に「天日鷲命(あめのひわしのみこと)が孫(うまご)を率(ひき)いて肥(よ)き饒地(ところ)を求(ま)ざて阿波国(あはのくに)に遣(つかは)して、穀(かじ)、麻(あさ)の種(たね)を殖(う)えしむ。其(そ)の裔(すえ)、彼(そ)の国に在り、大嘗(おおみにへ)の年にあたりて、木綿(ゆふ)、麻布乃種種(あらたへまたくさぐさ)の物を貢(たてまつ)る。所以(このゆえ)に郡(こほり)の名を麻殖(をえ)と為(す)る縁(ことのもと)なり。」と書かれていますが、徳島をよく知らない方は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)がどこか彼(か)の地から阿波国へやって来たと考えるでしょうが、よき地を求めて阿波国へ来たというのは、神山から阿波郡(あわぐん)・麻植郡(おえぐん)に来たことをいっているのです。以上のことから、阿波が「倭国」(いつのくに)であったことを理解していただけたと思います。阿波が、古い倭(やまと)だったことはあとで説明しますから、ここでは省きます。
(倭については「久米一族の調査研究」の香具山考を参照してください。)




従来の古事記解釈は、間違っている。
 古事記は、古事記が書かれた712年から、約100年さかのぼる推古天皇(西暦600年頃)までの記録ですから、その特代に合わせた読み方をしなくてはなりません。従来の読み方は、地名を現在の地名にあてはめて、読むため話のつじつまが合いません。
 先に書いたように、四国は四国と呼ばれず「伊予の二名島と呼ばれていた」とあると、早合点して伊予を愛媛県と解釈します。同じように倭(やまと)は奈良県、出雲は島根県、竺紫(つくし)は九州、日向は宮崎県にあてるために、話のつじつまが合わなくなり、合わないから神話であるといい、最後に実際にあったことではない、などと言い始めます。
 それらの間違いは、その時々に説明しますので、今回は、従来の古事記解釈がおかしい五カ所を検証します。
1.伊予の二名島の解釈ができていません。これは、前ページで説明しました)
2.古代の日本国の範囲が限定されていません。(出雲と日向は、島根県と宮崎県のことではない)
3.国生みは、四国を中心としている。(国生みの比定と順序が間違っている)
4.別(わけ)の国から根別(ねわけ)の国はできない。
5.大宜都比売神が古事記の主人公(中心の神)!