2.古代日本の日は畿内・四国から西の範囲である

 古代の日本国の領域は図3の通りです。通常、大八島は日本全土と解釈していますが、それは後世に呼ばれるようになったもので、古事記に書かれている大八島とは、畿内・淡路島・四国・九州・壱岐・対馬・隠岐島・佐渡島のことです。畿内から東は、神武天皇(じんむてんのう)以降に、景行天皇(けいこうてんのう)が日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定を命じて広がった地域です。神武天皇が大和に入るまでは、四国が日本の一番東の端(はし)でした。というより、四国だけが古い倭(やまと)の範囲ですから、考古学上、現在の日本国内に縄文時代の巨大な三内丸山遺跡〈青森県)等があっても古事記に書かれている、古代の日本には属していないので、それは別の国〈文化圏)のものと考えて古事記を読まなければ、古事記を正しく読んだとはいえません。それぞれの文化をもった集団が、だんだんとまとまり現在の日本になっていったのです。

 次ぎに、古事記の国生みの話の後は、黄泉(よみ)の国の話が、出雲の国と筑竺(つくし)の国にまたがって繰り広げられます。これは、次回に特集しますから、ここではくわしく説明しませんが、国生みで出雲国をつくっていないのですから、黄泉国の話の中に出雲国が出てきても、島根県にあてはめて考えるのはおかしいでしょう。このように、古事記に書かれている地名の比定が『高志』を出雲とか越後にあてたり、『科野国の州羽の海』を長野県諏訪湖としたり、『美濃国の藍見河』を岐阜県長良川としたり、『御緒山の上に坐す神なり』を奈良県三輪山にあてています。しかし、それらは単に地名に合わせているだけで、そのころは、四国から東の地域はまだ日本国の領域に入っていない地方ですから、古事記の国生みの範囲に書いてもいない地名にあてることなどできません。生んでもいない地域にあてて解釈することは、間違っています。しかし、従来の解釈はそれをしているのですから不思議です。国を生んだ地域は、図3の範囲ですから、よく確認して場所の比定を、もう一度よく見直してみるべきです。



3.国生みは四国を中心としています
 国生みの比定と順序が間違っています。
 古事記によると国生みは、1.淡路島から始まり2.四国3.隠岐島4.九州5.壱岐島6.対馬7.佐渡島8.畿内をまずつくったと記しています。(次回以降UP)
 そして、通説では図4.のように、順序よく時計回りに国生みがされているのに、3.の隠岐島だけが日本海側に飛んで比定されているのは不自然です。隠岐島と書いてあると、伊予の二名島、出雲、筑紫、日向等と同様に、字の通り島根県の隠岐島に比定してしまいますが、3.隠岐島以外は順序よく時計回りに比定されているのですから2.四国と4.九州の間に3.隠岐島を比定したほうが自然です。本居宣長も、当然おかしいと分かっていたから、『古事記伝』の中で、
【かくの如く序みだりならざるに、ただ隠伎ノ嶋のみみだれて筑紫の前にあるこそ、いともいともいぶかしけれ。】
と隠岐島の順序が違うことを不思議がっています。しかし、その後の研究者は先にならえと島根県の隠岐島にあててきました。古事記は、隠岐ノ島を隠岐の三子の島と指定しているのですから、三子の島の条件に合うところでなければなりません。日本海にある隠岐島は島前と島後からなり、四島からなる島で三子の島にあたらないため、本居宣長は『古事記伝』で苦しい解釈をしているのです。
 【三子ノ島とは、或人、此ノ国三ノ嶋ある故に云と云り。國圖(クニガタ)を考るに、まず此ノ國四嶋に分れたる、其中に東北ノ方に在て大キなるを、俗(ゾク)に嶋後(ダウゴ)と云ヒ、其西南ノ方に、天之嶋向之嶋知夫(チブリ)嶋とて三ツあり、此ノ三ツノ嶋を統(スベ)て嶋前(ダウゼン)なり。三ツ子とはまことに此レを以て云なるベし。】
として、隠岐島の島前の三島だけを隠岐の三子島としています。四島を隠岐島というのに島前の三島で三つに
なるから、それで隠岐の三子島というのはむちゃです。日本海にある隠岐島は、順序と島の数が合いません。
 そこで、四国周辺の隠岐島にあたる島として、徳島県阿南市沖にある伊島が考えられます。伊島がなぜ、隠岐島かというと蒲生田岬の東方にある弁天島・前島・棚子島の三島を総称して伊島と呼んでいるからです。それで三子島の条件にもあい、国生みの順序にもあっています。伊島こそ古事記のいう隠岐ノ三子島にあたります。次に、淡路島から国生みが始まり、大八島を生み終えて「しかる後、帰りますとき」(次回以降UP)と古事記に書いてあります。淡路島より国生みが始まり、「大八島国を生み終えた、その後、帰る時に島を生んだ」というのです。しかし、本居宣長の「古事記伝」には、次のように書いてあります。
 【帰りますときとは、帰りましし時と読むベし、上の八島を生みめぐりて、もとのオノコロ島の方ヘ帰ることをいうなり。さて、次の吉備の児島より次々は、みなオノコロ島より西にありて、今帰りたまへる路にあらねぱ、それは、すでに帰りめぐりて、又さらに西の方へ生みつつ出でますなり】
とここでも字を書き足して、すでに帰ったと苦しい解釈をしていますが、「帰りますとき」と書いてあるのですから、当然、出発した所に帰ると考えるものです。しかし、通説ではなぜか、図4のように吉備の児島から中国大陸に帰るように島々をあてています。中国から来たから、中国へ帰ると説明する研究者もいます。しかし、古事記は、淡路島から国生みが始まったと書いてあり、中国からきたとは書いてありませんから、当然、淡路島に向かって帰るのです。実際に、吉備の児島の次に小豆島を生みと淡路島に向かって進んでいる、にもかかわらず、なぜかUターンしてしまうのです。まったく不思議な解釈としか言いようがありません。