4.古事記上巻の出雲と日向は、島根県と宮崎県のことではない
 国生みで出雲も日向も生んでいないことは、古事記と図3.をよく確認していただけれぱ分かると思います。古事記の物語は、国生みの後、すぐに出雲国・日向と出て来ますが、従来の解釈は、出雲は島根県、日向は宮崎県としていますが、古代の倭回(日本)にまだ属していなかった島根県、宮崎県にあてて考えることはできません。国をつくった範囲の中で起こった事を古事記が伝えているのですから、国生みでできた範囲内に出雲と日向があると考えなけれぱ、古事記の伝えることを正確に読み取っているとは言えません。
 古事記が書かれた後に、諸国の役人によって記録された、各国の『風土記』を参考にしながら、出雲、日向が島根県、宮崎県にあてはまらないことを考えてみましよう。
《出雲国》
 「出雲の古代史」門脇禎二氏は、著書の中で「出雲は、記紀神話においては、高天原とならんで主な舞台の一つであり「葦原の中つ国」とされている。ところが、出雲は、古代国家形成史の主舞台にはほとんど現れない。やがて登場する出雲の首長も、すでに征服され従属されたのちの形姿と動きである。この二つの間のギャップはどこから生じているのだろうか。」と書いています。
 ほとんどの研究者は、古事記の出雲を島根県にあてて解釈しているので、先のような疑問が生じてしまうのです。なぜなら、古事記の上巻に伝承される出雲の物語「黄泉国の話・八俣のオロチ・稲葉の白ウサギの物語」などの話が、出雲風土記に「国引きの話」など全く違った伝承の物語が書かれているのです。そのため、大和政権が古事記に採用しなかった伝承を出雲風土記に載せたとか、古事記は偽書であるという説になってしまいます。出雲風土記の編纂者は、出雲の伝承を忠実に記録したのですから、古事記の上巻の出雲伝承とは違っているのです。古事記の上巻の出雲と神武天皇以降の部分にあらわれる出雲とでは、内容的にかなり違っており、上巻の出雲との整合性もなく、日本武尊に殺された出雲建の冶めた地が、現在の出雲〈島根県)になります。
 このように考えると、古事記、日本書紀、出雲風土記の物語に整合性かでてくるのです。簡単な説明ですから、わかりにくいかもしれませんか、要するに、初代神武天皇より十一代後の景行天皇の代以降に、現在の出雲ができたのであり、それ以前に書かれている出雲を島根県にあてはめて解釈することは間違いです。
《日向》
 九州は、図2.のように四つの国からなっていると古事記に記されています。熊襲国を熊本県の南部から鹿児島県へかけての総称と解釈する研究者もいますが、仮にそうだとすると九州の半分が熊襲の国となり、日向は熊襲の国の中にあることになりますが、国生みの時に日向を生んだと書いてないのは、むしろ九州南部が、まだよく把握されてない地方だったからしょう。それでなければ、景行天皇(けいこうてんのう)が、自分の先祖、神武天皇(じんむてんのう)の出里(でざと)へ熊襲征討(くまそせいばつ)などに出掛けるはずがありません。日向国風土記には、景行天皇が兒湯県(こゆのあがた)〈宮崎県児湯郡(こゆのこうり)〉に来られたとき「この国の地形は、直ちに扶桑(ふそう)〈ヤマト〉に向かっている。日向となづくべし」と仰せられた。
 名付ける以前から日向なら、神武天皇より十一代後の天皇が、日向に来て「ここを日向と名づける」というようなことは言うはずがありません。名付ける以前の国名が日向ではないからこそ、日向と名付けたのです。
 扶桑とは、日本の国名を扶桑と読んでいたのですから、日向から扶桑が直ちに見えるということは、四国か扶桑、つまり倭〈ヤマト)となります。扶桑を大和(奈良県)にあてる研究者もいますが、そんな研究者の頭の中の地図は、四国の部分が真っ白で、九州からすぐに紀伊半島が見えるのでしょう。そんなことを書く研究者がいるから、ほんとに鷲きます。
 以上のことから、伊邪那岐命が禊をした所も天孫降臨の地も宮崎県〈日向〉ではないのです。古事記上巻の、出雲と日向は、宮崎県と島根県のことではなく、阿波のことです。次号でそのことについては説明しますから、ここでは触れません。